藤原道長の「望月の歌」の意味とは?何を思って詠まれたのか?

歴史
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藤原道長のイメージってどんなイメージですか?

平安時代の藤原家の代表的な存在です。

天皇を補佐する摂政という座につき、

一族から3人の女子を天皇に嫁がせた政略家。

こんなところでしょうか?

まさに平安時代の藤原家の栄華を極めた存在です。

そんな藤原道長の代表的な和歌と言えば「望月の歌」です。

 

  • この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 

藤原道長が権勢を誇った後一条天皇の時代に詠まれた歌で、

《此(こ)の世の中は、すべてが満足にそろって、自分の世のように感ずる。(満月が欠けるところのないように、この世の中で自分ののぞむ所のものは何でもかなわぬものはない)》(第一学習社『詳録新日本史史料集成』)

と訳されるのが一般的です。

ただこの歌が道長の娘の結婚式の2次会の宴席だったことや

当日は満月ではなかったことから、

自分の栄華を誇る歌ではなく、

娘や息子たちの繁栄を願う歌だったのではないか

ともいわれています。

藤原道長って本当はどんな人だったのか?

平安時代の代表的な政治家であり、

天皇家に自分の娘を嫁がせたり、

自分と関係の薄い天皇を退位させたり

と、とにかく強引なイメージがありますよね。

ただ道長自身は結構な苦労人だったようです。

道長は5男。

この時点で出世する見込みは薄いのは分かりますよね。

ただ家柄に恵まれてはいるので、

若くして正三位の権大納言に25歳でなっています。

このあとの出世は偶然と言ってもいいかもしれません。

兄たちの病死であっという間に

藤原北家の後継ぎになったのです。

特に陰謀説や暗殺説などは歴史に残っていないので、

偶然にも落ちてきたチャンスを

きっちりとモノにしただけなんでしょう。

チャンスをきっちりモノにするあたりは豪胆でもあり、

冷静沈着でもあったのだと思います。

若いころに苦労しているため、

決してボンボンのわがままな人間ではなかった

ことが考えられますよね。

また道長の歴史を見ると

計算高さもうかがえる証拠があります。

彼は関白にはなっていません。

決してトップの位にはついてないのです。

当時の一条天皇や三条天皇とは

そりが合わなかったためともいわれていますが、

実際のそのあとの権勢を見る限りは、

花は天皇に持たせて実を取ったような形になっているので、

やっぱり計算の上での行動だったのではないでしょうか?

藤原道長は家族思い?

「御堂関白記」の記載から道長の性格が伺えます。

彼は「望月の歌」のイメージからくる

傲慢不遜な単純な人間ではありません。

時と状況によって小心であったり大胆であったり、

相手によって親切と冷淡であったり、

同時に寛容の場合と残忍の場合もありました。

少なくとも家族に対しては親切であったと記載されています。

『参照:藤原道長の日常生活 (講談社現代新書)』


道長の家族思いの一面を思うと

「望月の歌」は一族・家族の繁栄を願う歌

であったとの解説が非常にしっくりきます。

 

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