小説『牙を剥く老兵、象牙の塔の傲慢』第10章

小説
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企業勤めの内科医ヒロスケです

私は15年前に臨床医から企業勤務医に転職しました

転職した理由はいくつかの理由があり

決して単独の理由で転職したわけではありません

今回私が転職をした理由のいくつかを小説形式にして紹介します。

 

大学病院を含む総合病院での仕事の中で

気が進まない仕事が転院作業

一言で転院作業といっても診療科によって異なります

私は臨床腫瘍内科医として勤務していましたので

癌患者を他院に紹介することになります

前向きに理由で転院を進めることにはストレスはありません

例えばより専門的な治療が必要なときや

勤務先の病院にはない治療機器を必要とするとき

そんな理由での転院は今よりもよくなる可能性があるため転院作業にストレスはない

 

しかし後ろ向きの転院作業にはストレスが伴います

一番多いのは

これ以上化学療法をすることが不可能と判断したとき

つまりターミナルの状況で緩和ケア病棟を有する病院への転院

また大学病院やがんセンターでは新薬の治験が適応されない患者さんには

関連病院への転院を進めることになります

こういったときの転院先は標準治療を行う上では支障のない病院を紹介するのですが

患者によっては大学病院やがんセンターといったブランドにこだわり

転院を拒否する患者がいます

正直なところ

診断から最初の治療を手掛けた患者さんは最後まで看てあげたい

最期の時を見送ってあげたいと思う

ただ大学病院やがんセンターではそれは不可能です

病院にはそれぞれ求められる機能と役割があります

 

大半の患者さんは、転院先の病院に心配な点はないことや

多くの医師が知り合いであり、優秀な医師がそろっていることを説明することで

納得していただき転院の手続きが進められます

 

こういった作業を日常の激務の合間を縫って行うわけで

ある意味医学的には全く関係のない業務に振り回されているかが良くわかると思います

 

そんな転院作業の中で私をボロクソにこけおろし

長々と治療することもなくベッドを占有した患者がいました

 

第10章:『牙を剥く老兵、象牙の塔の傲慢』

ステージⅣの非小細胞肺がん。

利用可能なすべての標準治療を終え

病状の進行をコントロールできなくなった60代の女性患者

宗方さんは、大学病院のベッドを実質的に「占拠」し続けていた

本来、大学病院の使命は先進医療の開発であり

治験や臨床試験を通じて未来の医学を発展させることにある

根治の見込みがなく

積極的治療の適応を失った患者には

緩和ケア病床のある関連病院へ転院してもらう――

それが、限られた社会資源を循環させるための冷徹なルールだ

「宗方さん、何度も申し上げている通り

当院は研究・開発を主軸とした特定機能病院です

今の宗方さんに必要なのは

これ以上の身体的負担を伴う抗がん剤ではなく

痛みをコントロールする緩和医療です

適切なケアが受けられる専門病院への転院を……」

私の言葉を、宗方さんは鼻で笑って遮った

彼女はかつて、国立病院の看護師長を務め上げた人物だった

医療現場のシステムも

医師のキャリアの仕組みも

すべてを知り尽くしている

だからこそ、その言葉には容赦がなかった

「ふん、綺麗事を言わないで

要するに、これ以上私を置いておいても点数が取れないから

早く追い出したいだけでしょ?」

「違います。

当院のベッドは、次の治験や臨床試験を待つ患者さんのためのものでもあるんです

国立病院の看護師を経験された宗方さんなら

病院の機能分担の意味は分かっていただけるはずです」

その瞬間、宗方さんの目が獣のように鋭く光った

酸素カニューレをつけた顔が、怒りで赤黒く染まる

「分かっているから言っているのよ!

誰に向かってそんな口を利いているの?

あんたみたいな若造医師に、私の身の振り方を指図される覚えはないわ!」

ベッドから身を乗り出し

掠れた、しかし刺すような声で彼女は畳み掛けた。

「私はね、あんたの上司の教授がまだ駆け出しの医局員だった頃から、

この世界のトップで組織を仕切ってきたの

この大学病院の今の病院長だって、私の昔からの知り合いよ

私がその気になって一本電話を入れれば

あんたの医師としてのキャリアなんて

いつでもここで終わらせることができるのよ

分かったら黙って、私にここで次の治療を続けなさい!」

この人は何を言っているのだろう

私のキャリアと病院長は全く関係ない

大学病院を首になっても

医師免許を取り上げられるわけではない

末期患者の精神状態が悪くなるのは理解できる

そんな患者からのどんな罵詈雑言でも耐えることはできる

ただ同じ医療の世界で、患者の尊厳を守る組織の長であったはずの人間から放たれた言葉か?

私の眼には生への醜い執着と、若手を恐怖で支配しようとする権力欲のようにも見えた

私は拳を握りしめ、言葉を失った

鈴木さんのように周囲に迷惑をかけまいと痛みに耐えながら外来に通う患者がいる

その一方でかつて医療の光と影を見てきたはずの老兵が

特権意識を振りかざして若い医師の尊厳を蹂躙する。

この病院で繰り広げられるのは、命の尊さなどという美しいドラマではない

人脈と権力でベッドにしがみつく

声が大きいものが得をする世界

「医学的適応のない治療をこの病院で継続することは、制度上不可能です」

私が冷徹に言い放つと、宗方さんは枕元のティッシュボックスを私に向けて投げつけた。

「出て行きなさい! 役立たずの若造が!」

狂乱する病室を後にし、私は静まり返った廊下に出た。

背中を冷たい汗が伝っていく。

私は医学の発展に寄与したいからこそ大学病院での勤務を受けいれた

それまで働いていた病院の給与の三分の一でだ

こんな醜悪なエゴのぶつかり合いと、それを調停するために大学病院に勤務しているわけではない

首にできる?

できるものならやってみろ

喜んで辞めてやるよ

私は白衣のポケットの中で、何度も何度も、震える指先を強く握り込み続けた。

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