小説『最善の浪費』第1話

小説
本記事内には広告・プロモーションが含まれます。

企業勤めの内科医ヒロスケです

私は15年前に臨床医から企業勤務医に転職しました

転職した理由はいくつかの理由があり

決して単独の理由で転職したわけではありません

今回私が転職をした理由のいくつかを小説形式にして紹介します。

全何回になるか分かりませんが

お付き合いいただけましたら幸いでございます。

経験談を複合していますので、フィクションですのであしからず

 

小説冒頭案:『沈黙の請求書』

深夜二時の医局。空調の低い唸りだけが、この巨大な箱がまだ呼吸していることを辛うじて伝えていた。

デスクの上に積み上げられた、月次点検用のレセプト。

液晶画面をスクロールするたびに、私の指先は微かに震える。

六百万。  一千二百万。  八百万。

並ぶ数字は、もはや一般のサラリーマンの年収を大きく超えている

そして、その名前の横に記された年齢は、七十八、八十二、八十五……。

七割、いや八割が、人生の最終章を迎えつつある高齢者たちだ。

私は、免疫チェックポイント阻害剤の瓶を思い浮かべる。

あの透明な液体一滴一滴に、この国の若者たちの労働と、子供たちの未来が溶け込んでいる

それを一〇〇ミリリットルの生理食塩水に混ぜて、私は今日も、孫の花嫁姿を夢見る老人の血管へと送り込んだ

「俺の仕事は、何なんだ?」

独り言は、壁に貼られた「患者第一」の標語に虚しく吸い込まれていった。

病を治しているのではない

命を救っているのでもない

私は、システムという名の巨大なシュレッダーに

社会の資産を丁寧に投入し続けているだけではないのか

ふと、ファイルの下から一通のレセプトが顔を出した

四十五歳

Bさんのもの

彼に投与した薬の額は、今日診た八十二歳のAさんと大きく変わりはない

だが、画面を閉じる私の目に映ったのは、

いつか診察室の隅で、お父さんのスーツの袖を握りしめていたBさんの幼い息子の、あの不安げな瞳だった

背後で自販機の缶コーヒーが落ちる音がした

振り返ると、同期の川崎が伸びをしながらこちらに歩いてくる

「まだやってんのか? レセプトの点検なんて、適当に流しゃいいのに」

川崎は私の肩越しに画面を覗き込み、一千万円を超える数字を見ても眉一つ動かさなかった

彼にとって、それは単なる「適正なコード」に過ぎない

「……これ、どう思う? 82歳にここまでつぎ込んで、俺たちは一体何を作ってるんだろうな」

私の言葉に、川崎は鼻で笑った

「何って、エビデンスに基づいた標準治療だろ。診療ガイドラインに書いてある。適応もある。なら、やる。それだけだ」

「でもさ、この額だぞ。この国の財布がいつまでもつか……」

「おいおい、経済学者みたいなこと言うなよ」

川崎は真顔になり、声を潜めた。

「いいか、俺たちの仕事は『マニュアル通りに動くこと』だ

マニュアルから外れて何かあったら、訴えられたら負けるからね

裁判官はガイドラインしか見ない。患者の背景だの、国の将来だの、そんなのはリーガルリスクの前では無意味だよ」

彼はコーヒーを一口すすり、事務的に付け加えた

「俺たちが考えるべきは『社会の生産性』じゃない。『自分の専門医資格と、病院の経営利益』。それ以外を考えるのは、ただの越権行為だ」

川崎は自分のデスクに戻り、慣れた手つきで次のカルテを処理し始めた

その背中に、もはや迷いはない。彼にとって、医療は正解のあるパズルなのだ

私は一人、再び液晶画面のレセプトに目を落とした

もし、目の前のこの数字が「命の重み」ではなく、単なる「パラメーターの最適化」の結果に過ぎないのだとしたら

マニュアル通りの治療を、リスクを回避しながら提供するだけでいいのであれば

――近い将来、治療方針の決定権はAIがすることになるのだろう

そこには「浪費」への罪悪感も、救えない命への憤りも、未来への責任も存在しない

ただ、最適化された数式が導き出す「正解」だけが、冷徹に執行される世界だ

私は深く、今日何度目かわからないため息をついた

消えかかった医局の灯りの下で、自分がまだ、割り切れない感情を持った「人間」であることの重みだけが、鉛のように心に溜まっていった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました