小説『最善の浪費』第3話

小説
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企業勤めの内科医ヒロスケです

私は15年前に臨床医から企業勤務医に転職しました

転職した理由はいくつかの理由があり

決して単独の理由で転職したわけではありません

今回私が転職をした理由のいくつかを小説形式にして紹介します。

全何回になるか分かりませんが

お付き合いいただけましたら幸いでございます。

経験談を複合していますので、フィクションですのであしからず

 

第3章:『夜を歩く子供たち、いつものPHS』

当直は月に最低三回、連休が重なれば四回、五回と回ってくる。

日中の慌ただしい業務を終え、ようやく病棟でレセプトやカルテの整理に集中し始めた矢先、腰に下げたPHSが、静まり返った廊下に鋭い音を立てた。

液晶画面には救急外来からの内線。

「先生、お疲れ様です。……いつもの喘息のお嬢さんです。また、お兄ちゃんと歩いて来ました」

受付の担当者の、慣れきった、しかしどこか諦念の混じった一言に、私は重いため息を一つ吐き、重い腰を上げた。

診察室に入ると、そこには五歳の女の子と、彼女の小さな手をしっかりと握る十一歳の兄が座っていた。

女の子の肩は喘息特有の努力呼吸で上下し、ヒューヒューという乾いた音が私の胸を抉る。

「大丈夫だよ、すぐに楽になるからね」

私が聴診器を当てている間、兄は妹の背中を、まるで手慣れた大人のようにさすり続けていた。

「お母さんは? 仕事、終わらなかった?」

 私が問いかけると、兄は顔を上げず、ただ小さく首を横に振った。

この光景を見るのは、これで何度目だろうか。

来院するたびに、私は「日中に、必ずご両親と一緒に来てください」と、口が酸っぱくなるほど伝えてきた。

吸入薬の使い方を指導し、管理計画を立てなければ、この発作は繰り返される。

だが、この診察室に大人の姿が現れたことは、ただの一度もない。

受付の「いつもの」という言葉が耳の奥でリフレインする。

高度な新薬で予後を半年延ばすために数千万円を費やす一方で、目の前のこの子は、数百円の予防薬さえ適切に与えられないまま、深夜、十一歳の兄に引かれて夜道を歩いてくる。

私は吸入器を準備しながら、言葉にならない無力感に襲われた。

もし私がマニュアル通りの「医師」であるなら、ここで親の不適切養育を責め、公的機関へ通報して終わりだろう。

だが、この街の暗がりに潜む、働くしかない親と、その不在を埋める小さな兄妹の現実を前に、私の言葉はいつも虚空を漂う。

吸入を終え、少しだけ表情の和らいだ女の子の髪を、兄が優しく撫でる。

「ありがとうございます。……あの、お薬もらったら、もう帰ってもいいですか?」

十一歳の少年が発する、あまりにも自立しすぎた問い。

私は頷くしかなかった。

彼らはまた、街灯のまばらな夜道を、手を繋いで帰っていくのだ。

兄妹が手を繋ぎ、夜の静寂へと吸い込まれていくのを見送った直後、再びPHSが鳴った。

「先生、もうお一方、歩いて受診です。48歳の男性。眠れない、と仰っています」

診察室に入ると、そこにはいかにも「多忙なビジネスマン」といった風貌の男が、不機嫌そうにパイプ椅子に踏ん反り返っていた。

「明日から海外出張なんだよ。半年は帰ってこれない。それなのに、いつも飲んでる眠剤が切れてることにさっき気づいてね。一ヶ月分、今すぐ出してくれ」

男は、まるでホテルのフロントで忘れ物を催促するかのような口調で言った。

私は、さっきまでの兄妹の温もりと、彼らが抱えていた沈黙の重さを思い出し、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

「……申し訳ありませんが、救急外来はあくまで緊急事態に対応するための場所です。院内の規定により、ここでの処方は最大で三日分までと決まっております。残りは明日、かかりつけのクリニックを受診されるか――」

「明日じゃ間に合わないと言ってるだろ!」

 男の怒号が、深夜の診察室に響き渡った。

「俺がどれだけ高い保険料を払ってると思ってるんだ? こっちは客だぞ! 海外で眠れなくて仕事に穴が開いたら、お前、責任取れるのか?」

高い保険料。

その言葉が、私の頭の中で昨夜のレセプトと結びつく。

田宮さんの数千万円の治療も、この男の我儘な要求も、すべては同じ「制度」という名の下に正当化されている。

彼らにとって医療は、感謝すべき「公助」ではなく、対価を払えば何でも手に入る「サービス」に成り下がっている。

「ルールですので、三日分以上はお出しできません」

私が淡々と告げると、男は捨て台詞を吐きながら立ち上がった。

「融通の利かない医者だな。お前みたいなのが日本の医療をダメにするんだ!」

叩きつけられるように閉められたドアの音。

私は一人、診察室に取り残された。

日本の医療をダメにしているのは、一体誰なのか。

必死に命を繋ごうとする鈴木さんか。

家族の都合で病院に留め置かれる田宮さんか。

それとも、親の不在を埋めて夜道を歩くあの兄妹か。

私の指先は、まだ震えていた。

高度な専門知識。数千万円の薬剤。そして、深夜の怒号。  これらすべてを等しく飲み込みながら、システムは音を立てて軋んでいる。

――私の仕事には、生産性があるのか。

その問いに答える声は、どこからも聞こえてこない。

眠剤を求めて怒鳴り散らした男が去った後も、PHSの音は途絶えることがなかった。

数日前からの腹痛を「明日から仕事が忙しいから」とこの時間にねじ込んでくる会社員、酔っ払って転倒した自称・常連の老人、ネットで調べた病名を列挙して検査を強要する若者。

結局、明け方まで、重症とは言えない、しかし「今、自分の都合を優先したい」患者たちを診続けた。

東の空が白み始め、窓の外に大阪の輪郭がぼんやりと浮かび上がる頃、私の頭の中は霧がかかったような鈍い痛みに支配されていた。

救急外来の床を踏む足取りは、もはや自分の意志とは無関係に動く機械のようだ。

一睡もできぬまま、朝のカンファレンスが始まる。

そこではまた、田宮さんの「偽進行」や鈴木さんの「QOL」といった、綺麗にパッケージ化された医学用語が飛び交うのだろう。

深夜の診察室で浴びせられた怒号や、夜道を帰っていった兄妹の小さな手の温もりなど、最初から存在しなかったかのように。

私は、鏡に映った自分の生気のない顔を一瞥し、白衣の襟を正した。

疲労を感じたまま、泥のような意識を無理やり引き摺って、私はまた、いつもと変わらぬ翌日の通常業務へと移行した。

(第3話 終了)

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