小説『最善の浪費』第5話

小説
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企業勤めの内科医ヒロスケです

私は15年前に臨床医から企業勤務医に転職しました

転職した理由はいくつかの理由があり

決して単独の理由で転職したわけではありません

今回私が転職をした理由のいくつかを小説形式にして紹介します。

全何回になるか分かりませんが

お付き合いいただけましたら幸いでございます。

経験談を複合していますので、フィクションですのであしからず

 

第5章:『繋がれた明日、病室の静寂』修正版

田宮さんの家族を送り出した後、私は鈴木さんの待つ説明室へと向かった。

大部屋から移動してきた鈴木さんは、点滴スタンドを傍らに置き、少し背を丸めて椅子に座っていた。

その隣には、彼を支えるように座る妻、そして足元には、幼い二人の子供たちが静かに寄り添っている。

上の子は、妹に読み聞かせるようにそっと絵本を開いていた。

私は、田宮さんに話したのと全く同じ順序で、しかし全く異なる感情を抑え込みながら言葉を紡ぎ出した。

「鈴木さん。レントゲンで見つかった影、そして気管支鏡で確認された肺腺癌の細胞。残念ながらPET-CTの結果では、肝臓と骨に転移が見られました。ステージⅣ、進行肺がんです」

鈴木さんの妻が、子供たちの耳を塞ぐように、あるいは自分の震えを止めるように、子供の肩を抱き寄せた。

「全身に癌が広がっているため、手術での完遂は困難です。

ですが、幸いなことに、鈴木さんの癌には免疫チェックポイント阻害剤が有効である可能性が高い。

今回の入院で行った一コース目の結果、画像上は少し大きくなっていますが、これは薬が効き始めている『偽進行』だと判断しています」

私は鈴木さんの目をまっすぐに見つめた。

「根治――つまり癌を完全に消し去ることは、今の医学では容易ではありません。

ですが、この治療を継続することで、癌の進行を抑え、これまで通りの日常を一日でも長く維持することを目指します。

明日からは予定通り外来での治療に切り替え、仕事や家庭生活と両立させていきましょう」

鈴木さんは、膝の上で握りしめた自分の拳を見つめていた。

その手は、副作用の重だるい倦怠感のせいか、微かに震えている。

「……先生」

鈴木さんが掠れた声で口を開いた。

「仕事、戻っても大丈夫でしょうか。

下の子が小学校に上がるまでは、どうしても……。あの子たちの成長を、少しでも長く見守ってやりたいんです。

父親らしいことを、まだ何一つしてやれていない気がして」

その言葉は、田宮さんの家族が口にした「安心」や「後悔」といった言葉よりも、はるかに重く、鋭く私の胸に突き刺さった。

彼が守ろうとしているのは、自分自身の命ではない。

隣で絵本を読んでいる子供たちの未来そのものだ。

「副作用の管理は私たちが全力でサポートします。

鈴木さんが、お父さんとしての時間を戦い抜くための治療ですから、何でも相談してください」

鈴木さんは、隣の子供たちの頭を優しく撫でた。

この一瓶数百万円の薬剤が、この家族にとっては、子供たちが大人になるまでの時間を少しでも手繰り寄せるための、唯一の糸なのだ。

説明を終え、家族が部屋を去っていく。

幼い兄妹が、お父さんのパジャマの裾をしっかりと握りしめて歩いていく後ろ姿を見送りながら、私はふと、昨夜救急外来を訪れたあの「いつもの」兄妹を思い出していた。

救いたいと願う父親がいるのに、時間が足りない鈴木さん。

時間はたっぷりあるのに、誰からも見守られず夜道を歩く兄妹。

そして、家族からも社会からも、ただ「コスト」として疎まれながら、死だけを遠ざけられている田宮さん。

私は、空になった説明室で一人、デスクに残された二人のレセプトを見つめていた。

――私の仕事には、生産性があるのか。

その答えは、やはり深夜の暗闇の中に消えたままだった。

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