小説『最善の浪費』第6話

小説
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企業勤めの内科医ヒロスケです

私は15年前に臨床医から企業勤務医に転職しました

転職した理由はいくつかの理由があり

決して単独の理由で転職したわけではありません

今回私が転職をした理由のいくつかを小説形式にして紹介します。

全何回になるか分かりませんが

お付き合いいただけましたら幸いでございます。

経験談を複合していますので、フィクションですのであしからず

 

 

第6章:『お帰り、おおチャン。日常という名の聖域』

当直明けの通常業務を終えた時、私の意識は薄氷を踏むような危うさの中にあった。

泥のように重い体を引きずりながら、夕暮れの街を歩く。

一刻も早く家に帰り、意識を失うように眠りたい。

だが、今の私には、病院の消毒液の匂いや、レセプトの冷酷な数字から最も遠い場所にある「人の営み」が必要だった。

学生の頃から通い詰めている、路地裏の定食割烹。暖簾をくぐると、出汁の香りと共に、聞き慣れた声が飛んできた。

「お帰り、おおチャン。

今日はまた一段とひどい顔してるね。幽霊かと思ったよ」

カウンターの向こうで、おばちゃんがいつものように割烹着の袖を捲り上げ、大皿を洗っている。

ここでは私は、癌化学療法の専門医でも、システムの歯車でもない。ただの、腹を空かせた「おおチャン」だ。

「……ただいま。おばちゃん、いつもの定食お願い。

今日は、もう、限界……」

「あらあら、また当直だったのかい?」

「うん。昨日の朝からずっと……。

夜中も救急が途絶えなくて、結局一睡もできなかったんだ。」

おばちゃんは手を止め、呆れたように、でも慈しむような目で私を見た。

「全く、そんなに働いてどうするんだい。

医者の不養生とはよく言ったものだね。

あんたが倒れるじゃないの?

はい、これ、まずはお茶。温まりな」

差し出された熱いお茶を啜ると、喉の奥がじわりと解けていく。

私はお茶の湯気の向こう側に、昨夜の光景を思い返していた。

「……それでいてさ、夜間に来る患者はコンビニ受診ばかりでさ。

明日まで待てるような症状で平気で夜中に呼び出されうと、俺、一体何してんだろ? って思っちゃうよ。

本当に助けが必要な人たちのために体力を使いたいのに、ただの便利屋みたいに扱われてさ」

「まあ……。大変だねえ、お医者さんも」

おばちゃんが運んできた、湯気の立つ肉じゃがと炊き立てのご飯。

その温かさに触れた瞬間、昨夜の兄妹の小さな手の感触や、田宮さんと鈴木さんのレセプトが、一気に脳裏を駆け巡った。

店内にいた近所の顔馴染み、田中さんが私の顔を見て、隣の席をポンポンと叩く。

「よう、先生。相変わらず忙しそうだな。

一睡もしてねえって顔に書いてあるぜ」

「田中さん……。

俺の仕事ってさ、本当に世の中に役に立ってるのかな」

自分でも驚くほど、情けない声が出た。

田中さんは盃を置き、怪訝そうな顔で私を見た。

「何を言ってやがる。

医者だろう? 毎日毎日、人の命を救ってるんだ。

役に立ってないわけないだろ」

「でも、救っているのか、ただ社会の財産を浪費しているだけなのか、分からなくなることがあるんだ。

一人の人生の終わりを数ヶ月先延ばしにするために、何千万円もの公費を使って……。

その影で、本当に助けが必要な子供たちには、一瓶の薬さえ届かないことがある。

俺が必死に眠らずに、コンビニ代わりの患者を診ながら動けば動くほど、この国の未来を削っているんじゃないかって、そう思えてくるんだ」

店内を、テレビの音だけが支配した。

おばちゃんは、私の前に漬物の小皿を静かに置き、そっと私の肩を叩いた。

「おおチャン、難しいことは私には分からないけどね。

あんたがここで飯を食って、また明日もあの白い服を着ていく。

それだけで救われてる人が、どっかに必ずいるはずだよ。

数字だの税金だの、そんなのは偉い人に任せときな。

あんたは、目の前の人が『今日を生きてて良かった』って思えるように、笑ってやりな。

それが一番の仕事だよ」

私は、おばちゃんから貰った「お帰り」という言葉と、温かな肉じゃがの味を胸に、明日また、あの不条理な戦場へと戻るための気力を、少しずつ、少しずつ手繰り寄せていた。

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