小説『最善の浪費』第4話

小説
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企業勤めの内科医ヒロスケです

私は15年前に臨床医から企業勤務医に転職しました

転職した理由はいくつかの理由があり

決して単独の理由で転職したわけではありません

今回私が転職をした理由のいくつかを小説形式にして紹介します。

全何回になるか分かりませんが

お付き合いいただけましたら幸いでございます。

経験談を複合していますので、フィクションですのであしからず

第4章:『希望という名のノイズ、沈黙の不在』

当直明けの重い体を引きずり、私は再び田宮さんの病室にいた。

退院を前に、改めて現状を整理しておく必要がある。

ベッドの脇には、昨日「入院継続」を訴えた長男に加え、今日初めて顔を見せる次男の姿があった。

「改めて、これまでの経緯と現在の病状についてお話しします」

私は、田宮さんの外来初診時のレントゲン写真から、順を追って説明を始めた。

「最初は、長引く咳がきっかけでした。レントゲンで肺に腫瘤陰影が見つかり、精密検査としての気管支鏡検査で肺腺癌の細胞を確認しました。

これが確定診断です。

残念ながら、PET-CT検査の結果、肝臓と骨にも転移が認められました。

全身に癌が広がっているステージⅣの状態です」

田宮さんは静かに聞いている。

私は言葉を選びながら、核心に触れた。

「癌が全身にあるため、手術や放射線で取り切ることは不可能です。

根治は望めません。

今回の化学療法の目的は、少しでも癌の進行を遅らせ、残された時間を有意義に過ごしていただくことです。

ですから、これからは無理に入院を続けるのではなく、外来で体調を管理しながら、ご自宅での生活を大切にしていきましょう」

一通りの説明を終え、室内を静寂が支配した。

納得したかのように見えた、その時だった。

今日初めて現れた次男が、不意に身を乗り出した。

「先生、ネットで調べたんですが、『免疫細胞療法』というのを受けさせたいんです。

自分の細胞を活性化させて癌を叩くという……。

最新の治療なんですよね?

それなら、根治の可能性もあるんじゃないですか」

心臓の奥が、冷たく、そして鋭く痛んだ。

この数週間、必死に副作用と向き合い、高額な薬剤の管理をしてきた現場の苦労を知らない人間が、最後の最後に持ってくる「魔法の杖」。

「……自由診療で行われているその種の治療には、田宮さんの病状に対して効果があるという明確なエビデンスはありません。

今行っている保険診療の化学療法こそが、現時点で最も推奨される『標準治療』です」

「……先生、やってみないと分からないじゃないですか! 親父に後悔させたくないんです」

次男の感情的な叫びを、私は真っ向から見据えて受け止めた。

昨日からの疲労で掠れかけた声に、専門医としての重みを乗せる。

「いいですか。

がんの『標準治療』というのは、単なる平均的な治療のことではありません。

その時点で世界最高とされる治療法と直接戦わせ、明確に有効性が上回ると証明された、現時点での『最高峰の治療』のことです。

それが証明されて初めて、公的な保険診療として認められるのです」

私は一度言葉を切り、液晶画面に映る田宮さんのデータを指した。

「もし、あなたが仰る免疫細胞療法が、それほどまでに期待できる治療法であるなら、なぜ最高峰である現在の標準治療と比較するための臨床試験が行われないのだと思いますか?

答えは残酷ですが、出ています。

正面から戦っても勝てない――つまり、同等の効果すら期待できないからです」

次男が言い返そうとするのを制し、私は畳み掛けた。

「今、田宮さんに投与している免疫チェックポイント阻害剤は、ノーベル賞でも認められた、人類が長年夢見た本物の免疫療法です。

科学的な裏付けのない自由診療に貴重な時間と資産を費やすよりも、まずはこの確かな治療を継続することを、専門医として強くお勧めします」

診察室に、張り詰めた静寂が降りた。

私の言葉に含まれた「資産」という響きに、昨夜のレセプトの影が混じっていることに、彼らは気づいただろうか。

沈黙を破ったのは、昨日から付き添っていた長男だった。

「……おい、やめろ。先生がここまで仰ってくれてるんだ」

長男は弟の肩を叩き、深々と頭を下げた。

「すみません、先生。弟も動転していて。……父のことは、先生の仰る通りに進めてください」

次男は不満げに視線を逸らしたが、それ以上口を開くことはなかった。

病状説明は、これで終了となった。

病室を出る間際、私は田宮さんの視線と重なった。

彼は、息子たちをたしなめることも、感謝を述べることもなく、ただ一言「世話になったな」とだけ小さく呟いた。

その声には、高額な医療費や高度な理論を超えた、一人の人間が自分の人生の幕引きを悟った時のような、静かな諦念が混じっていた。

――救われたのは、家族の「良心」だけかもしれない。

私は医局へ向かう廊下で、昨夜の五歳の女の子の喘鳴を思い出していた。

数百円の吸入薬があれば平穏に眠れた子供。

そして、無意味な数百万の治療を巡って議論される老人。

私の診察室は、今日も不条理なバランスの上に成り立っている。

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