企業勤めの内科医ヒロスケです

私は15年前に臨床医から企業勤務医に転職しました
転職した理由はいくつかの理由があり
決して単独の理由で転職したわけではありません
今回私が転職をした理由のいくつかを小説形式にして紹介します。
全何回になるか分かりませんが
お付き合いいただけましたら幸いでございます。
経験談を複合していますので、フィクションですのであしからず
小説:『帰りたい男と、帰れない理由』
翌朝。回診の足取りは、いつになく重かった。
まずは鈴木さんの病室。彼はベッドの上で、青白い顔をしながらもノートパソコンを開いていた。
「鈴木さん、画像上は少し腫瘍が大きくなっています。でも、これは免疫チェックポイント阻害剤特有の反応――偽進行の可能性があります。希望を捨てず、もう一クール、外来で様子を見ましょう」
鈴木さんはキーボードを打つ手を止め、深く、噛み締めるように頷いた。
「外来で……。明日からは、仕事に戻りながらということですね」
明日からは、満員電車に揺られ、副作用の倦怠感や下痢の恐怖と闘いながら、彼は「父親」としての役割を、そして「納税者」としての日常を取り戻そうとする。
その背中に、私は「無理はしないで」という言葉をかけられなかった。今の彼にとって、無理をすることこそが生きる証なのだから。
次に、田宮さんの病室へ向かう。
「田宮さん、お薬の反応をみるためにも、予定通り明日いったん退院して、外来で続きをやりましょう。お孫さんの結婚式に向けて、体力を整える意味もあります」
「おお、そうか! 先生、ありがとう。やっぱり家の方が飯が旨いからな」
田宮さんは無邪気に喜んだ。
しかし、その傍らで説明を聞いていた長男夫婦の顔が、一瞬で強張ったのを私は見逃さなかった。
回診の帰り際、廊下の角で田宮さんの長男に呼び止められた。
「先生、ちょっといいですか」
人目を忍ぶようなその声に、嫌な予感が走る。
「……退院のことですが、なんとかなりませんか。実は私たち共働きで、家には昼間誰もいないんです。父がもし家で具合が悪くなったらと思うと、心配で。このまま入院して治療を続けてもらうわけにはいかないんでしょうか」
心配、という言葉。
それは「家で死なれては困る」「介護の負担を負いきれない」という本音をオブラートに包んだ、現代社会の悲鳴だった。
私は、さっき見た鈴木さんの必死な姿を思い出す。
一瓶数百万円の薬を使い、さらに一日数万円の入院費を費やして、この病院を「安全なホテル」として使い続けるのか。
田宮さんの命を繋ぐための公費が、ここでは家族の利便性のために消費されようとしている。
「鈴木さんは、働かなければならないんです。でも、田宮さんは、帰りたくても帰れないというのですか」
喉まで出かかったその言葉を、私はいつものように飲み込んだ。
「……病床の空き状況も厳しく、本来は外来で可能な治療ですから」
事務的な返答をしながら、私は心の中で計算を始める。
絶句する長男夫婦を前に、私はさらに言葉を重ねた。
逃げ場を塞ぐためではない。
この「静かな告発」を、当事者である彼らにも共有させるためだ。
「いいですか。当院のような高度医療機関のベッドは、限られた社会資源です。化学療法を含め、私たちが提供している高度な医療は、本来、それによって得られた時間を『社会の中で』、あるいは『家族と共に』過ごしていただくためのものです」
私は厳しい現実を説明するため、ナースステーションに田宮さんのご家族を招き入れて彼らを見据えた。
「もし、家に連れて帰るのは心配だからと、ただ治療を続けるためだけに入院を継続させるのであれば……。
私たちは一体、何のためにこの治療をしているのでしょうか。
社会から隔離された病室で、ただ余命を永らえさせるためだけに、副作用のある化学療法を継続する。
その時間に、田宮さんご本人にとって、そしてこの社会にとって、どのような意義があるとお考えですか?」
長男の妻が、弾かれたように顔を上げた。
その瞳には、私の言葉が放つ冷徹な正論への恐怖が浮かんでいた。
「それは……治療を、やめるべきだということですか?」
「必要性を、もう一度ご本人も含めて考え直すべきだということです。
外で生きるための治療を、内に留まるための理由にしてはならない。
もし『日常』に戻ることを拒まれるのであれば、私たちはこの治療そのものの是非を、倫理的な観点から再検討せざるを得ません」
私はそれだけ言い残すと、彼らの返答を待たずに帰宅を促した。
医局へ戻る道すがら、頭の中には再び鈴木さんの姿があった。
副作用に耐え、満員電車に揺られ、泥を這うようにしてでも「日常」という光の中へ戻ろうとする鈴木さん。
そして、最新の医学という鎧を纏いながら、家族の「安心」という名の檻に閉じ込められようとしている田宮さん。
――生産性のない医療。
昨夜、レセプトを前に漏らした言葉が、今度は具体的な重みを持って私の胃の腑を焼く。
明日、二人は退院する。
一人は希望を持って戦場へ、もう一人は居場所のない不安を抱えて、おそらくは別の病院へと「放逐」されるための準備を始める。
私は自分のデスクに座り、深く、深くため息をついた。
このため息だけが、マニュアル通りに動くAIには決して真似のできない、人間としての私の「仕事」の証であるかのように思えて、ひどく虚しかった。

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